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彼、加々良至誠はふと疑問を覚える。 ――あれ? ここは……どこだっけ? まどろんだ脳が生み出すふんわりとした感覚はまるで無重力空間にいるかのような心地よさを覚え、至誠の自我を二度寝の水底へと誘惑する。 『――ったく、いつまで寝てんだよ』 夢現の狭間にあった意識の中に、急にぶっきらぼうな姉の声が耳についた。 『ちょっと――この脳筋ゴリラッ! 私の話聞いてたの!?』 続いて妹の声も耳に届く。 『████!? ████████████!』 『███? ████████』 『███████████! ████████!』 姉と妹がなにやら言い争っているようだ。 ――またか……。 至誠がゲンナリとそう感じる理由は、我の強い姉妹の間で板挟みとなって育ったからだ。物心ついたころから中間管理職のような苦労を感じていれば内心でぼやきたくもなる。 ――今回も仲裁に入らないとダメかなぁ……。 姉と妹の間を取りなすのは骨が折れる。しかしもっと恐ろしいのは母の雷が落ちた時だ。姉妹喧嘩に巻き込まれて一緒に叱られた経験は数え切れない。 ――少しは仲裁する側の苦労も知って欲しいなぁ……。 などと思っていると、姉と妹の声はどちらも聞こえなくなっていた。 ――あれ? もしかして、もう起きないとマズい時間? とろめく意識の中で、高校生活が始まって以来まだ皆勤賞であることを思い出す。大学の推薦入試のためにも寝坊は避けないと――と、至誠は二度寝の誘惑に立ち向かう。 なんとか善戦していると、聞き慣れない声が耳に届いた。 「█████、██████。██████████████」 「███」 「██」 複数人の声が聞こえてくるものの、いずれもよく聞き取れなかった。 声量的にそれほど遠い訳でもないようだが、頭が日本語として認識できていない。 「██████████████████」 再び声が鼓膜と脳を刺激する。 先ほどよりもはっきりと聞き取れる声量だ。 しかし相変わらず言語として認識できない。 ――日本語じゃ……ない? そんな疑念を抱くが、どうせテレビ番組か何かだろう――と結論づける。 それよりも今は高校に遅刻して皆勤賞を逃すことの方が問題だ。 至誠はなんとか眠気に打ち勝ち、重たいまぶたを開ける。 「……。……?」 最初に飛び込んできたのは光だ。しかし自室の見慣れた照明器具ではない。 天井には電球色をした極小の光が無数に鏤められ、それはまるで夜空にまたたく星々、あるいは星雲のような様相を呈しているからだ。 至誠は天文学が好きだ。宇宙にはロマンを感じずにはいられない。そんな趣味も相まって、プラネタリウムのような天井に思わず見入ってしまう。 だがそれは一瞬のことで、思考はすぐに現実へと引き戻される。 「――? ――?」 至誠の脳裏では疑問符が大量生産される。 その光景に、見覚えも心当たりもないからだ。 ――と、ともかく、まずは起きよう。 状況がよく分からないが、きっとまだ寝ぼけているのだろう――と考え、体にむち打ち、上半身を起こそうと試みる。 「……?」 ――あれ? 起きようとした。何度も起きようと試みるが、なぜか体が言うことを聞かない。まるで金縛りにでもあっているようで、指先すら微動だにしない。 寝ぼけた思考は焦りで上書きされる。 「████████████████」 と同時に、再び聞き取れない声がした。 その声質から非常に若い女性のような印象を抱くが、それだけで推し量るのは難しかった。幼い少女のようでもあるし、若い成人女性のようでもある。 「██████」 直後に聞こえてきたのは別の成人男性のような声だ。爽やかでかつ落ち着く低い声をしている。父親の声ではない。親戚の声とも違う。隣人でも学友でもない。 「█████████████、███████████」 さらに別人と思しき声が聞こえてきた。今度は老年の女性のような印象を受ける。しかし祖母や近所のお婆さんの声ではなく、こちらも心当たりがない。 その間にも体を起こそうと孤軍奮闘するものの、結果は徒労に終わった。 ――体は動かない……いや、まばたきはできる。 まるで金縛りのようだと感じつつも、至誠はいまできることを模索する。 ――眼球は動く。けど首は動かない、か。 わずかな眼球運動のみで見える範囲を探ってみるが、鍾乳洞のような天井にプラネタリウムのような光が瞬いていること以外は分からなかった。 「……」 再び声を出そうと足掻く。 しかし、こひゅーと息が漏れるのが関の山だった。 ――せいぜい、呼吸の深さを変えるくらいか。 深呼吸ができることに気が付いた至誠は、自分を落ち着かせるために繰り返す。 「――ッ!?」 直後、至誠は驚き思わず息を飲んだ。視界内にいきなり知らない人物が入ってきたからだ。 その間にその人物は口を開く。 「█████████████、███████████████████」 その人物は、声音から想像するよりも幼く見える少女だ。 だが相変わらず何を言っているのか理解できない。 日本語ではない。学校で習った英語とも違うようだ。その他の外国語は知らないため結局それが何語なのか皆目見当がつかない。 「███████、██、████████████████████」 少女は手を伸ばし至誠の額に触れる。 そして髪を優しくかき分けながら、再び理解できない言語を口にする。 「████████████████████、████、██████████████████████」 何を言っているのか分からない。 だが何か問いかけてきているような雰囲気は感じ取れた。身振り手振りで意思疎通を図れればいいのだが、残念なことに至誠の体は未だに言うことを聞かない。 その少女の顔立ちから受ける印象は、小学校の高学年くらいの年端だ。だが表情の動き方には子供っぽさは感じられず、むしろ落ち着き払った仕草に大人びた印象を受け、そこに強いギャップを感じる。 その骨格や肌の色から、少女が白人だろうということは分かる。特に北欧やロシア寄りの印象だ。少なくとも至誠にとってなじみ深い弥生人や縄文人的な黄色人種ではない。 少女の容姿の中で最も特徴的なのは、そのサラサラとなびく赤い長髪だ。至誠にとって赤毛といえば橙色を連想する。しかし目の前の少女は一線を画し、まるで赤漆のように鮮やかな赤色をしている。 加えて彼女の瞳は髪色に合わせたかのような深紅で、まるでルビーやガーネットのようにきらびやかだ。その瞳孔は縦に長い楕円をしており、まるで白昼における猫の瞳のようだ。 目を丸くする至誠とは対照的に、少女は興味深そうにのぞき込んできている。表情は柔らかく目を細め口角が上がり、鋭利な八重歯がのぞかせている。 その表情は純真無垢な少女のものというよりも、獲物を見定めた肉食獣のようだ。 そうこうしているうちに少女は至誠から視線を外し、別の誰かに声をかける。 「████████████。████████」 「███████████████████、████████████████████。███████████████████████」 「████████████」 ――意味が、分からない。 それが至誠の偽らざる心情だ。 少女の口にする言葉だけではない。目が覚めると見知らぬ場所で、見覚えのない少女に聞いたことのない言葉で話しかけられる。そして、そこに至る記憶も心当たりもない。そんな状況に「何が何だか分からない」以外の感想が出てこなかった。 同時に心が波立つのを自覚した。 至誠は慌てて「落ち着け」と自分に言い聞かせ、深呼吸を試みる。パニックになったところで、かえって自分の首を絞めることになると理性が訴えている。 ――落ち着け。落ち着いて、今できることがないか、もう一度考えよう。 至誠は論理的に思考を巡らせることで、波立つ感情をせき止めようとした。 「――っ!?」 その直後、視界の端から何かが飛んできた。 本だ。それも表紙が古いアンティークな革装本。至誠にとっては海外の巨大図書館や映画の中でしか見たこともないような重厚で分厚い本だ。サイズはB4かA3、背幅も五センチ以上はありそうだ。 その本の外観から、非常に重そうだ。少なくとも、欲ある辞書よりは重いはずだ。しかし少女は重量を全く感じさせず、まるで物理的な衝撃などなかったかのように素手でつかみ取り、受け取っていた。 そのまま優雅にすら思える所作で本を開き、ページをめくっていく。 至誠は脳裏を埋め尽くす疑問符を整理し平静を保とうとするが、目の前の光景から生み出される疑問符の方が多く、動揺を抑え込むのが難しくなってくる。 そんな至誠を一瞥し、少女はベッド脇に沿って右手に移動すると、間を置かずベッドに登った。 いや飛び乗った。 横たわる至誠を跨ぐように立ち、改めて本を開く。該当ページに指を入れていたようで、今度はページをめくる所作はなかった。 少女の身長は低かった。おそらく120から130㎝くらいで、まさに小学校の高学年くらいだ。 だが妙に大人びた印象を受けるのは、その年齢に不相応な服装をしているからだろうか。襟は大きく、表地は黒で裏地は赤いマントを羽織っている。その下に見えるゴシックな服はまるで軍服のようだ。軍服と言ってもセーラー服の類いではない。もっと荒々しく、威圧的、威厳的な印象を受け、男物だと言われても頷けるデザインをしている。 だが最も気になるのは頭上を浮かぶ謎の円環だ。金属質の円環に三本の棘が生えているそれは、周囲の照明光を反射させながら空中を緩やかに回転している。帽子や髪留めではない。重力に逆らうように、完全に宙に浮いている。 「███████████」 そして状況は至誠を置いてけぼりにしながら進行する。 少女の手のひらとその周囲に図形のような光源が発生していた。謎の光は複雑な模様が幾重にも重なり合っていたが、次第に目が眩むほどのまばゆさになる。 至誠は光量に堪えられず、思わず眉間にシワが寄るほど強く目をつぶった。 ……。 まぶたを開くことができない。それほどの光量が続く。 一分か二分か。 いや、もっとだったかもしれない。 …………。 ……。 ………………。 しばらくして、ようやくまばゆさが減退した。 と同時に少女の言葉が聞こえてくる。 「どうだ? これで言葉は通じているはずだ」 ――えっ? 不意に耳に付いたのは、少女の日本語だった。それはあまりにも突然に、それでいて訛りなど感じさせないほど流暢に。 思わず目を丸くする。その反応で言葉が伝わっていることを察した少女は「通じたようだな。何よりだ」と満足げに語り、腰を下ろし顔を近づけると「さて――」と言葉を続ける。 「今は無理に動かない方がいい。現在、君の肉体は治療の最終段階に入っている。体が動かないのはその治療のためだ。声が出ないのも同様だ」 ――治療? 事故にあった? それとも何かしらの事件に巻き込まれた? ぞわりとした感情が至誠の脳裏ににじみ出てくる。 少なくとも至誠には心当たりがない。思い出そうとするが記憶が曖昧だ。手繰れば手繰るほど、新しい記憶が欠落しているのを実感できる。 「まずは、意識レベルを確認しておきたい。この指先を追うことはできるか?」 少女は右手の指先を至誠の前に持ってくると、目の前で左右に位置をスライドさせる。至誠は増長する不安をせき止めるため、今は素直に目で指先を追うことにした。 しばらく視線を動かすと、少女は「眼球運動は自発的にできているな」と満足げに呟くと、少女は続けて両手の人差し指を立てつつ、一方的に話を進める。 「次に、いくつか簡単な質問をする。君は視線を使って回答してくれ。肯定ならば私の右の指を、否定なら左の指へ視線を動かし、もし質問が理解できない、あるいは答えが分からない場合は目を閉じてくれ。どうだ、できそうか? 問題なければ、肯定を示してくれ」 意思疎通がすでに始まっていることを理解し、至誠から見て右にある少女の指へと視線を向ける。 「よろしい。まず念のために確認するが、私の言葉は理解できているな?」 視線を右に向け肯定を示すと、少女の質問はさらに続く。 「今日の日付は分かるか?」 今度は視線を左へ向け否定の視線を向けると、少女は少しだけはにかんだ。日付が分からなかったことに対してではなく、おそらく「肯定」と「否定」を使い分けられている事実に対してのようだ。 「この場所で目を覚ましたことに心当たりはあるか?」 再び否定を示す。 「では記憶はどうだ? 思い出せるか?」 至誠は今一度、海馬にある記憶を手繰る。 父は漁師で遠洋まで船を出す時期は家にいない。祖父は地元の地方議員で、こちらも家を空けることが多かった。専業主婦の母は鬼のように怖い人で、すぐにげんこつが飛んでくる。祖母はとても穏和で優しかったが最も怒らせてはならない人だった。 年子の姉と妹がいて、仲の悪い二人は、学校でも家でも頻繁に喧嘩をするので間を取り持ったり仲裁したりと大変だった。連帯責任で何度母の雷に巻き込まれたことか――そんな小さい頃からの思い出は、不思議とすぐに浮かんでくる。 だが記憶は高校二年生の途中から朧気で判然としなくなる。特にここで目覚める前にどこで寝たのかは全く思い出せない。 至誠は視線で否定を示すと「それは記憶が全くないという認識で問題ないか?」と問われたので、再び否定を返す。 「一部の記憶が欠損している感じか?」 肯定を返すと、彼女は満足そうにはにかんだ。 「では最後の質問だ。自分の名前は思い出せるか?」 加々良至誠。 言葉が出ないので名乗ることはできないが、しっかりと覚えているので右側の指を見つめ肯定を示す。 少女は一呼吸置き「なるほど――意思疎通できているな」と満足げに語り、言葉を続ける。 「次の確認だ。今から足先に触れる。触られたと感じたタイミングで目を閉じてくれ」 まだ残されている右の指先を見つめ肯定を返すと、少女は至誠から視線を外し、別の誰かに対して頷く。 直後、誰かに左足に触れられている感覚があったので、目を閉じた。 「どちらの足に触れられているか分かるか? 左右の内、触れられている方の目だけを閉じてみてくれ」 言われた通り右目を開く。 するとすぐに触れられている足が右に変わったので、すぐに閉じる目も入れ替える。 その後、何回か入れ替わったり両足に触れられたりしたが、問題なくまばたきで答えることができた。 「確認は以上だ。意識レベルに問題ないな。君について聞きたいことは山ほどあるが、それは口がきけるようになってからにしよう。今は治療が最優先だ」 少女はさらに至誠へと近づき、前髪と額に触れながら言葉を続ける。 「先に、こちらの知り得ている状況について軽く説明しておこう。――まず、我々としても君がどこの誰なのか分からない。君は『神託残滓』と呼ばれる、地下深くにある特殊な氷層の中で発見された。肉体がひどく損傷した状態でな」 ――え? なぜ? いったい何が? そんな疑問は言葉にならず、ただ瞳孔にのみ反映される。 「心当たりがないようだな。だがそれはこちらも同じだ。瀕死の人間を見つけ、治療しているにすぎない」 それほど重篤な状態だったのだろうか――と、脳裏に死の恐怖がにじり寄る。 「だが肉体の損傷については安心していい。すでに山場は超え、命に別状はない。まもなく治療の最終工程も終える見込みだ。そうすれば体の自由も戻るだろう。今は難しいことは後にまわし、命をつなぎ止めたことを喜ぶといい」 彼女は優しく語り、その小さな手を至誠の頬に添えると、ふと思い出したように名乗る。 「あぁそうだ。まだ名乗っていなかったな。私はリネーシャだ。リネーシャ・シベリシス。この名前に心当たりは?」 すでに掲げられた指はなかったが視線で否定を示すと、少女――リネーシャは「そうか」と相づちを打ちながら、長く鋭い八重歯をのぞかせ愉しそうにはにかんだ。