ラザネラ暦 42██年
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数多の命が流れた鮮血を前にしても、その吸血鬼は飢えていた。
空腹というわけではない。
しかし脳裏にこびりついた飢餓感は彼女を蝕んでいる。
「所詮、こんなものか……」
返り討ちにされ山のように積み上げられた吸血鬼狩りの骸。そこに腰をかけると、彼女――リネーシャ・シベリシスは小さくぼやいていた。
「……つまらん」
満たされないのは食欲ではない。闘争心だ。
リネーシャは物心ついた頃から血で血を洗う闘争に身を置き、生きるか死ぬかの命のやり取りの中でしか生の充実が得られず、心が満たされない。
同族やエルフ、獣神や魔神の軍勢を屠り、あまつさえ鬼神すら喰らった。
しかしどれほどの天才や英傑も、神やそれと同列に崇められていた神格者ですら彼女を満たすには足りなかった。
そうして地上最強の座を手にしたリネーシャが得たものは、退屈だった。
悠久の時を待ったがリネーシャに匹敵する強者は現れず、一方的な蹂躙はもはや家畜を順番に屠殺していく単純作業とさして変わらない。
「全く以て、つまらん」
亡骸を見下ろし嘆くリネーシャのもとに、一人の若い男が現れる。
「――くッ、遅かったか……」
肩で息をしていた男はすぐに呼吸を整えると、面と向かい、帯刀している刀に手を添えながらリネーシャへ問いかける。
「念のため聞くが……生存者は?」
「お前だけだ」
頬杖をつきながら放たれる返答は、まるで期待外れだと言わんばかりだ。
男は深く追及することなく、ただただ無念そうに「そうか……」とだけ呟いた。
「……それで? お前は、そろそろ私を愉しませてくれるのか?」
殺害予告に等しい期待を向けられ、糸のように細い男の目元はいっそう険しくなる。
リネーシャが過去にその男を見逃してやったことは数え切れない。そして相まみえる度に強くなっている手応えがある。
「俺という果実は、もう充分に実ったのか?」
だがリネーシャにとっては乳児が幼児になったようなものだ。実力差は歴然であり、まだまだその足元にも及ばない。しかし彼の口調は最強の吸血鬼を前にしても対等だと言わんばかりで、臆している様子はまるでない。心が折れていない内はまだ強くなれそうだな――と感じるが、今は期待外れだとばかりに告げる。
「ようやく芽吹いた程度だ。蕾すらない」
男は「だろうな」とため息混じりに緊張を解きつつ、リネーシャへと向き直す。
「話は変わるが――リネーシャ、ちょっと散策デートでもしないか?」
男が唐突に口説いてきたことで張り詰めていた緊迫感が濁る。それは純粋な闘争を求めるリネーシャにとっては不純物でしかない。故にリネーシャの心は靡くことなく、顔色ひとつ変えずに無言で足蹴にする。
それは男も気がついているはずだ。だが男は構わず言葉を続けた。
「最近『不浄の地』のさらに先がどうなっているのかどうにも気になってね。リネーシャにも調査を手伝って欲しいんだよ」
「無駄なことだ」
「けど、退屈しのぎにはなる」
間髪入れず一蹴したが、男はそれでも食い下がる。
「お前は知らんだろうが『不浄の地』には何もない。醜い肉塊ども以外はな」
「この前見てきたよ。これまで『怨人』以外に何も発見されていない記録も」
世界の外側には『怨人』と呼ばれる巨大な化け物どもが跋扈している。奴らは人類共通の脅威だが、リネーシャにとっては取るに足らない雑魚ばかりだ。知能がなく戦術や駆け引きもない。そこにはリネーシャの求める闘争はなく、ひたすら害虫を駆除するのと同列だ。なんの昂ぶりも得られない。
「だからと言って『他に何もない』ことの証左にはならないだろう? 俺たちが『世界の外側』について知っていることなんてごく一部――表面的なものでしかないはずだ。例えば不浄の地の地下深くには何かあるかもしれないし、オドの濃度には何か法則性があるかもしれない」
「そんなことをして何になる」
「『何があるのか』『意味があるのか』は重要じゃない。その過程が楽しいんだ」
リネーシャは「興味ない」とあしらったつもりだったが、男は嬉々として続ける。
「実際、苦労が実を結ぶことは少ない。でも、だからこそ、上手くいった時の達成感は一入だよ。共に進む仲間がいればなおさらね。――リネーシャにも、ぜひ未知を既知へと変える楽しさを味わって欲しいと思ってる」
男が語る『仲間』とやらにリネーシャを引き込もうとしている意図は明快だ。世界最強の戦力を懐柔できれば世界を牛耳ることも夢ではなくなる。実際、これまでにそういった下心からすり寄ってきた有象無象は星の数ほどいた。
「くだらん」
「そう、端から見ればくだらないことさ。でもこれはリネーシャが闘争に充実感を求めるのと同レベルの話だと思うけどね」
そういう意味でくだらないと言ったわけではないが、実際のところリネーシャは男の趣味が理解できなかった。
「……」
理解はできないが、少しばかりの共感はできる。闘争に身を焦がしたところでそれがいったい何になるというのか。所詮は自分が満たされるか否かの問題だ。ならば男の語る知的好奇心もまた、リネーシャの闘争を求める感情とさしたる違いはない。無論、その知的好奇心が下心のない純粋なものだったならば、だが。
「俺にとっては幸いと言うべきか――この世界は膨大な未知や謎で溢れている。アーティファクトなんかその最たる例だな。どうやって生まれたのか、どういう仕組みなのか、なぜ存在しているのか……まるで理解が及ばない。俺はそういうものにロマンを感じるし、唆られる性分なんだ」
それに――と男はさらに続ける。
「未知を解明し技術革新が起きれば、リネーシャの求めている闘争の一助となるかもしれないだろ? 少なくとも、ここで嘆いているよりは暇を潰せるはずだ」
リネーシャはため息を一つこぼす。表情で暗に「失せろ」と示していたにもかかわらず全く喋るのをやめないその男に呆れ果てるかのように。
「……まぁいい。今はその口車に乗ってやろう。どうせ、退屈していたところだ」
そして肩をすくめるとリネーシャは気怠そうに腰を上げた。これが罠であることを期待して。策を弄して闘争を挑んでくることを心待ちにして。
――。
――――。
――――――。
時代は巡る。
人の寿命は短い。
たかだか100年程度で老衰し、あっけなく死んでいく。
あの男もそうだ。
激動の世界大戦を生き抜き、後に勇者と呼ばれ、国を興し、歴史にその名を刻んだ。
だがすでに老憊した身体は寝具から起き上がることすら能わず、世界最大の共和国を築き、何度も世界終焉の危機から救った英雄の面影は風前の灯火だ。
「今からでも遅くはない。眷属が嫌ならば、延命できるアーティファクトがいくらでもある」
男の今際の際に、リネーシャはそう告げる。
だが彼は、今回も老い嗄れた声でそれを否定する。
「いいんだ、リネーシャ。人として生まれたからには、これが道理の通った理だ」
リネーシャが目を伏せると、男は息苦しさを押し殺し、優しく微笑みながら言葉を続ける。
「それに、今とても好奇心がうずいて仕方がないんだ。この世界には明らかに霊体――魂と呼べるナニカがある。だが死んだ者の魂は、人知れずどこかへと消えゆく。その先に何があるのか、どのような世界が広がっているのか、自分の目で確かめられることに期待で胸が膨らんでいる。だから、私は、あの世を探訪する旅に出る。ただ、それだけのことだ」
「……」
「リネーシャ。お前は強い。……だが、永劫不滅な存在などありはしない。お前もいずれは死ぬ時がくるだろう。何百年後か……あるいは何千年後か――もしその時がきたら、またあの世で、議論の続きをしよう。端から見れば下らないような話をしよう。時には呆れ、時には意見をぶつけ合い、そして、時には喜びを分かち合おう。その時は、地上の土産話も期待しているよ……リネーシャ」
それが男と交わした最期の言葉だった。
そして彼はわずか100歳ほどでその人生に幕を下ろした。
彼は生涯、武の極地――リネーシャの待つ頂きに到達することはなかった。
だが彼の知的好奇心に付き合っている間に罠だったことはなかった。下心があるような素振りも、実際にリネーシャの武力だけを利用しようとしたことも、ただの一度もなかった。最期までただ純粋に、ひとりの友人として仲間として、リネーシャの側にいた。
そして共に歩んだこの数十年は、不思議と退屈とは感じなかった。
「……」
国を挙げて執り行われる勇者の国葬を遠巻きに見つめながら、リネーシャはがらんどうとなった彼の研究所で独り呟く。
「全く以て、つまらんな……」
そして地上最強の吸血鬼は闘争に飽きると、未知なる叡智を探求し解明すること――知的好奇心を満たすことに生き甲斐を覚えるようになっていた。
その後リネーシャは男の研究機関を引き継ぐと、知的好奇心の赴くままに未知を既知へと変えていった。
そればかりか自らが皇帝の座に着き地位を手に入れると、金、権力、人脈の全てを駆使し、世界の真理を探究していった。
それから――
勇者が没し、千と数百年の歳月が流れた。時はラザネラ暦6077年1月。
「ねぇリネーシャ、デートしましょ! でぇ、えぇ、とっ!」
「この論文を読むことより意義があるとは思えんな」
「あらあら、そんなこと言っていいのかしらぁ? 興味深い報告が上がってきてるわよ?」
現在リネーシャが皇帝として座する国家『レスティア皇国』。その皇族であるエルミリディナ第一皇女は、勝ち誇った顔をしながらリネーシャへと報告書を手渡す。
その報告書には『とある王国の鉱山地帯、その地下深くで新たに特異性を有する氷層が発見されたこと』そして『その中から人に類似した未知の生物が発見された旨』の一報が記されていた。
リネーシャは思わず口角が上がり、即決する。
「介入するぞ。すぐに準備しろ。人員の選定は任せる」
「分かったわぁ」
その日、リネーシャは新たなる未知との遭遇にこの上なく好奇心がくすぐられ、唆られた。